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この世界の片隅に 1945年呉に住んでいた祖母に聞いたあの頃の話

ブログ4ヶ月目に入ったからか?本日もアクセス数絶好調でこれがいつまでも続くようにと心を引き締めている管理人です。


さて、映画が大盛況なこの世界の片隅に。祖父、祖母ともに広島の人である私は映画を見ながら、あの日のおじいちゃん、おばあちゃんもこんな感じだったのだろうかと思いながら見ていた。あの日、ばあちゃんとじいちゃんが生き残ったから、お父さんが生まれ私が生まれこの映画を見ているのだ、と思うと他人事にはとても思えなかったし、しみじみと祖父祖母を含む先人たちの時間の積み重ねを感じたものだ。


さて、正月で実家に久々に戻ってきた。祖父は亡くなっているが、祖母は健在だ。祖母は元気にしているかな、と思い帰省すると


ばあちゃん、ボケてた。


重度ではないが、その日や前日に会話した内容を覚えられないらしく、同じことを何度も聞いてくるし、何度も話してくる。それはもう繰り返し繰り返し。


夕食の時間。同居している母は苦笑いしながらも、祖母の相手をしている。わたしも母にならい、祖母の会話のペースに合わせるように何度も同じ話に付き合った。


祖母は自分が嫁に来たときのこと、おじいちゃんに恋をしたころのことを話し出した。


祖母はここ数日の会話なぞは覚えられないようだが、ずっと昔はよく覚えているようだったし、どちらかと言うと祖母の口から出てくる話は昔、祖母が若かったころの話が中心だった。


祖母は饒舌に戦時中のことを語った。健康だったときはあまり語りたがらず、こちらも聞くに聞けないまま来てしまった戦争の話。この世界の片隅にを見たばかりの私からすれば、すずさんと同じ時代に同じ呉で戦争と戦った祖母の話は興味深く、祖母がより多くを語るように質問を交えながら会話をした。


私「おばあちゃん、昔呉におったんやっけ?」


祖母「私は呉におったんよ、まだ女学校のころよ、よく見えたピカドンの光。何にもない普通の日やったんやけどな、広島の方から凄い光が見えてその後、大きな音がしたんよ。しばらくしたらな、大きな雲がもくもくしとった。」


私「へぇ、おばあちゃん何歳くらいのとき?」


祖母「女学校のころよ。明るい光を見てしもうたんよ。でもだーれにも言えなかった」

※後に祖母の年齢から計算すると祖母が13歳のころのようです


私「なんで光を見たこと、内緒にしてたん?」


祖母「そんなこと言うたら嫁にも行けん、誰にも言えん。」


祖母曰く、あの頃は原爆の詳細がわからず、とにかく新型爆弾として怖がられ、その恐怖はともすれば差別にも繋がり得るような空気感があり、光を見たと言えば自身も差別されるのではという恐怖からとてもじゃないが言えなかったと。

当時、13歳だった祖母。まだ少女だった祖母。


祖母「戦時中は厳しかったんや。もう嫌、あんな思いするのはもう嫌。」


繰り返しそう語る祖母を見ると、まだあの日の記憶は祖母を解放せず、心に影を落としたままなのかもしれない、と感じにはいられなかった。


私「女学校のころ、一番しんどかったことはなんだった?」


祖母「呉は爆弾がようけ落ちとったから、すぐ逃げれるように泳ぎの練習もさせられとった。呉から瀬戸内海にある島までずっと泳ぐんよ。学校の船が横についとって溺れる生徒がおりゃ、一回引き上げてまた泳がせるんよ、ほんまにキツかった。」


私「カナヅチの子はどうするん?泳がされるって言っても泳げんやろ?下手したら死んじゃうんじゃないの?」


祖母「そういう問題じゃない」


「「そういう問題じゃない」」


何気に衝撃だったが、爆弾に当たっても死ぬし、海にしか逃げれない状況なら泳げない=死に繋がるわけで、そう考えれば何が何でも泳げるようにさせるという方針が取られていたのかもしれない。しきりにキツかった、と話す祖母にとって忘れられない記憶なのだろう。


あの日、あの時の記憶は家族の顔がわからなくなっても、家族と過ごした1日を覚えられなくなってもずっとあの記憶だけは留まり続けるのだと思う。


それほどにまで影を落とした戦争の怖さを思いがけず知る年始となった。


この世界の片隅に を祖母にも見てもらいたいと思う気持ちと、嫌なことを思い出させるだけかもしれないという気持ちをそっと胸にしまい込む1日でした。