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生きることと死ぬこと

どのようにしてより良い人生を生きるのか考えるなら、まずは自分の死を見つめるべきだと思う。


小林麻央さんが乳癌になったという。それも深刻だと。記者会見の海老蔵さんの表情からは悲しみや苦痛を押し殺したようななんとも言えない感情が感じられた。あんなに若いのに、と驚きもあったが、そう簡単に人は死なないからきっと大丈夫なのだろうと何故か安易に考えた。


そんな麻央さんがブログを開設した。開設して数日後には肺と骨にも移転していることが明かされた。つまり末期である。自分と歳が近いのに。癌はずっと身近だった。自分がもし彼女のようになったら、と考えずにはいられなかった。


旦那さんがいて、子供がいて、まさにこれからという時に、彼女は一体どんな気持ちなのだろうか。ふと思ったが想像ができない。私には旦那さんもいなければ、子供もいないからだ。何故、独り身のわたしは元気で病気もしないのに、守る家庭がある彼女が癌になるのだろう。その不条理がたまらなく憎らしく、悲しく悔しく変わってあげることができれば良いのにと思った。でも、それも出来ないので、せめてどうか良くなりますようにと祈った。それほど、歳が近い人が末期癌になることは衝撃的だった。


心配でブログを毎日覗くようになった。

何か好転はないか期待しながら。でも、やはり簡単に奇跡は起きない。


毎日ブログを見るうちに、ひとつ気づいたことがある。

死に直面しているのに、とても彼女は幸せそうだ。身体が元気なわたしよりもずっと。治療で苦しいはずなのに、不安もあるはずなのに、ずっとずっと幸せそうだ。


きっと死に直面したからこそ、生きてることの喜びをこんなわたしよりもずっと感じられるのだろうと思う。それは日々、死と向き合っている人にしか到達できない境地なのだと思う。それに引き換えわたしは日々生きることの苦痛を感じている。


自分が死に直面したら、どんな風に思うのだろうと考えるようになった。仮にあと1年で死ぬとしたら。わたしが本当にあと1年で死ぬとしたら。


行ったことのない場所へ行きたい。会ったことのない人に会いたい。見たことのない世界を見たい。文章が書きたい。文章でまだ生まれていない世界を作ってみたい。


現実という靄がかかってよく見えていなかった、純粋な欲望の輪かくが徐々にはっきりするようになった。


わたしがやりたかったことは、言葉を使って、何かを作り、そしてそれを通して、自分の世界を広げることだった。


死ぬまでにやりたいナントカという映画もあるように、死ぬまでにやりたいことをリストアップすることで本当にやりたいことを見つけ出すという手法はもはや一般的なのかもしれないが、わたしにはどうも死をリアルに考えることは難しい。いやいや、死なんし。という考えがどうしても頭をよぎる。


歳が近く、元気だった彼女が末期癌になった。それもあっという間に。彼女の姿がなければ、わたしは死ぬことについてリアリティを持って考えることが出来なかった。


生きることは面倒臭い。面倒というよりも苦しい。これが何年も続くとぞっとするが、何年も続くと決まってはいない。どれ位生きるのかわからないが、死ぬことはきまっているので、生きたい人生を生きるために、わたしはまず年単位の目標を作るつもりだ。


彼女のブログを毎日見るというとミーハーだと思う人もいるかもしれない。でもわたしは彼女を他人事とは思えないし、だからこそ、応援している。会ったこともないのに。馬鹿でしょうか。馬鹿かもしれません。でも祈らずにはいられないのです。