銭ゲバから見る幸福論
本当は何も書く気力なんてないが
銭ゲバを初めてよんだ。
飲み込まれると思った。
ジョージ秋山を知ったのは4年ほど前だったと思う。丁度アシュラが映像化されるタイミングで、仕事で訪れた書店にて アシュラ映画化! というPOPと共に商品が大々的に展開されていた。
そこで目にしたアシュラのPOPに 生まれてこなければ良かったのに という言葉があった。恨めしそうな少年の瞳と、世界を呪うようなこの言葉に何故だか強く惹かれて、それがどんな話なのかも、ろくに確認もせず購入した。
アシュラは絶望的な漫画だった。
どこにも光なんてないような気がした。
まるでこの世は地獄だとでも言いたいかのように、鬱蒼としていて、憎悪に溢れていた。
まず、割と簡単に人を殺す。昼飯食うくらいの手軽さで颯爽と殺す。相手も割とすぐ死ぬ。もっと描写して良いようなものだが、人を殺すということがあまり重く描かれていない。ただ、ひとつ言えるのは何も彼ばかりが悪いのではない。彼をそうさせる環境が確かにあった。唯一の救いは、ラスト。母が目の前で死ぬことによって、アシュラは少しだけ命の重さを知ったように思う。
アシュラのときに感じた、逃げ場のない絶望感は銭ゲバにも共通していた。人を殺しても自分は悪くない、そうさせる環境が悪いのだと言わんばかりに自らを正当化する銭ゲバさん。彼に親切にしてくれた人たちにだって、レイプしたり殺害したりする。もちろん、罪に問われたくないから、証拠隠滅も図る。完全に頭おかしい。サイコパスってきっとこういう奴のことです。
でもラストは非常に秀逸だった。
多くの人物を殺した銭ゲバを死に追いやったのは敏腕刑事でも殺し屋でもなく、幸福だった。
幸福論について記事を書いてください、
記者にそう言われた銭ゲバは筆を取って幸福について考える。
脳裏に浮かんだのは、家族と笑う自分の姿だった。銭があれば幸せだと思っていたのに銭を持っても幸せではなかった。好きな人と家庭を築き、そこそこのお金でできる範囲で贅沢をして、皆んなで笑いあう日常。それに気づいた銭ゲバは自分の過ちに気づき、銃を手に取る。。
どこを見渡しても、光が見つけられない。
この作品が持つ暗く濁った雰囲気がやがて私をも覆いつくのではないかという感覚に陥った。飲み込まれる。
と同時に、賞賛の気持ちが湧き上がってきた。何か作品を作るとき、書き手はどうも綺麗にオチを作りたがるところがある。どれだけ暗い作品でもラストは明るくしたいだとか、悲しい作品でも綺麗に仕上げてお涙頂戴路線に持っていきたいとか。暗いものを暗いまま終わらせるのは勇気があることだし、それを成功させるのは筆力が相当必要だとも思う。
しかし、読了して数日。いまは少し感想が違う。
銭ゲバはこれ以上ないハッピーエンドだったのだ、と。
幸せは銭を得る事ではない。
愛する人と何気ない日常を送ることだ、と気づいたものの、時は既に遅い。もう皆自分が殺したのだから。それに気付けただけで
彼にとっては素晴らしいことではないかと今では思う。
良い作品は何日も考えさせる。
そういえば、誰だったか、
希望を見ようとするなら、悲しみに目を逸らさず、とことん向き合うことだ。悲しみの向こうに本当の明るさがある。
みたいなことを言ってましたが
まさにその通りですね。